築城は南北朝期と推定され、斎藤加賀守ら一族が一帯を支配していた。 1568年、武田軍の侵攻により勢力下に置かれ、山県昌景等が在番した。 武田支配時に改修され、現在の遺構の形態となった。1582年、徳川軍の 侵攻により、その支配下に置かれたが、1590年、家康の関東移封に伴い、 廃城となったと考えられる。この城は、三角山の頂上を中心に築かれ、 本曲輪の尾根上に大小の曲輪が配置され、土塁、堀、虎口を巧みに組合せている。