築城時期は定かではないが、南朝側が支城の一つである。三岳城陥落後、 宗良親王が居城したと伝えられている。その間、高師秦の攻撃を撃退したので、 堅城ぶりが証明されたと言える。城郭は、東西600m、南北500mと広大で、 尾根の沿って、曲輪が配置されている。土塁や堀はあるものの、自然地形を 利用した城である。