【82.小折城】  
江南市小折八反畑
訪城回数:1回(2007年1月4日)
二の丸跡
★所感
  ここから西南へ約150mの久昌寺には吉乃のお墓があるので、セットで訪れたい。
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吉乃御殿付近
案内板
生駒氏は大和国藤原忠仁公の子孫で、生駒山麓谷口村に住んでいたが、文明年間(1469-87)に
前野氏の祖先・宗安が承久の乱(1221年)に敗れ、生駒氏に庇護された旧縁を頼り、初代・生駒左京進家広は
この地へ移り本拠とした。生駒氏は灰(染物の原料)と油を商う馬借(運送業)で財を蓄え、尾北屈指の
豪族にのし上がった。生駒氏3代家宗の娘・吉乃は織田信長の側室となり、信忠・信雄・五徳を生み、
織田家に対して重要な地位を占めた。1555年、生駒屋敷を訪れた秀吉は蜂須賀小六の輩下となり、
信長の側室・吉乃のとりなしで信長の下僕に拾い上げられ、仕官はこの屋敷の二の丸の一隅だったと
『武功夜話』に書かれている。1560年、桶狭間の合戦の西美濃攻め戦略はこの地で練られ、
蜂須賀小六や前野小右衛門等によって国々の情報を集め、戦費は4代・生駒八右衛門家長によって賄われた。
小牧・長久手合戦時は反秀吉軍の最前線となり城は大幅に改修された。信雄追放後、家長は隠居したが、
その子・生駒隼人正利豊は秀吉に仕え、関ヶ原合戦後は松平忠吉に、更に尾張藩祖・徳川義直に仕え、
子孫は代々藩の重臣となり、生駒氏は小折に留まり明治を迎えた。
評価